しかし、どうも棟上げから気にはなっていたのだが、2階の小壁が高いようだった。測ってみ

ると、案の定5寸長く軒が上がってしまっている

ディテールはイラストの図面から無理らしからぬことはわかるが、真剣に検討したプロポーシ

ョンから矩計の寸法は譲れないものだった。ここでも大工主導になった。

大工に問い詰めると「2階の天井をどうやって張るんだ、打ち上げ天井ではないんだぞ。」

後の祭りだが私は反論した。

「帽子のツバを上げてかぶるやつがいるか!」と・・・。

それ以来現場はベニヤで封鎖されてしまった。


1985年 施工組織を持つ丸山建築設計事務所開設。

多くの現場をみると設計者が考えた寸法に責任を持つには施工と設計が連動することが必要である

と思えた。

これは個人的にはリスクは多くなるが建て主には好評だった。

それは設計と見積りがすぐさまわかり、それが直接施工に反映されることである。これはその様

子を見る建て主から信頼を得る要素であった。

ただ、この施工組織の大工は俗に言う「手間請け大工」だった。手間請け大工は物件ごとに請負

手間を決めて仕事をするものだった。これは建築の受注形態から今でも続いている雇用の形で

ある。そのために大工は手間賃の密度を上げるために手抜きになりやすいという弊害があった。

また、設計者はその造られ方を大工に委ねてしまうことになり、大工が持つ経験と技能から逸

脱できないことである。それは住宅の生産形態がその技術を評価しないような商品化部品が蔓

延し進展することになる。それを小規模工務店、設計者が闇雲に使うことはその行く末が危惧

されることだった。


1990年 潟ー建築工房を設立。

これまでの設計事務所を改組する。ここの大工は厚生年金と週休2日の常雇大工として仕事を

する。でもほとんどの大工は旧態依然の手間請け大工として流浪している。



1999年 真壁用補強金物「鬼に金棒」特許取得


 2009年9月  どう迷ったか2番目せがれも建築を選び工房に来る。

不景気風に見舞われ、見渡せば20,30代の大工は皆無である。


2009年12月  現在に至る。

しかし、現場は悪戦苦闘。大工は図面をみて「漫画を見せてもらえんか。」

「・・・漫画?」少し考えて合点がいった。


まるでイラストのようなシンプルな図面を見て、大工は設計者の力量を見破ったのだった。

それでも大工は見事に簓子(ささらご)の戸袋、力桁の階段をつくってしまった。

少し無骨ではあるがりっぱな階段。
大工がつくる簓子(ささらご)の戸袋。
現場の造作を自在にこなす力は在来工法が担ってきた。現在では造作を行える大工は稀少になったが、どう考えたらよいのか。
所長 
丸山純夫(まるやますみお)
・日本建築学会会員
・木の建築フォーラム会員
・真壁の家づくりネットワーク呼びかけ人
・とちぎの木で家をつくる会会長

●主宰者プロフィール


1951年 草深い栃木県足利郡御厨町の鍛冶屋の長男として生まれる。

幼少は父の仕事を見て育った。

小学生の頃はお寺の境内で三角ベースの野球をするか 近くの里山に入り肥後守で遊んでいた。

波型トタンを丸めたカヌーを作り近くの池で浮かべたりもした。

中学生時代はすべて軟式テニスに打ち込んだ。

県大会で優勝したこともあった。

高校は勉強もせずなんとなく過ごしたが、

中古のエンジンでゴーカートを作ってみたりもした。

2サイクルエンジンの混合ガソリンの煙と臭いがなつかしい。

家は後継ぎを望んだが振り切って東京へ出た。


1969年 工学院大学建築学科入学。

昔の職人学校(工手学校)である大学を頭脳と授業料の関係から選ばなければならなかった。

建築を選んでしまったが、よかったかどうか・・・。

いづれにしても、ものを作る仕事に就ければよいと思った。

学校は先輩たちの学園闘争のため休講が多かった。

家の仕送りもなくバイトに明け暮れたがそれは都合がよかった。

熱き先輩達の学園闘争を尻目に建築に熱くなることもなく、むしろその造られ方に興味がわいた。


運良く、日本橋茅場町の建築設計事務所に就職する。

岡本建築設計事務所である。

後で知ったことだが所長はA・レーモンドの片腕の構造家、岡本剛であった。

面接で代々木の体育館をどう思うかと問われたがわからなかった。

今では言わんとしていることがわかった。

仕事は忙しかったがオイルショックもあり事務所は休業することになった。

そこで所長は学校へ戻るので最年少の私に手伝ってくれないかと言われた。

しかし、じかにものづくりがしたく学校はそぐわないと思った。

長男で後継ぎのために田舎で親が待っていると言って断った。

そこで返事をしてしまったら、今頃、助手になり大学入試の答案用紙を配っていたに違いない。


1976年 一級建築士取得。

意気揚々と田舎に帰って設計を開始しようと思ったが仕事は請負大工に行ってしまう。田舎の設計

事務所は大工が考えた家をただ単にトレースして申請をするだけだった。
30歳前後は悶々とした日

々が続いた。

デビュー作は叔父の紹介で繊維会社の社長の家だった。木造の設計は初めてだったが、強引な

叔父の勧めで設計を受けることになった。

岡本所長から「わからん線は引くな」との教えから、スッキリした図面になっていた。平面プ

ランは中庭を主題とするものだった。

どこかで見たような和風旅館の風情であったが、社長には「下手な旅館に行かないで済む」

と喜ばれた。

ユー建築工房とは about U-builders work shop

私たちユー建築工房は設計家1人、大工3人、見習い1人、経理1人の合計6人で構成されています。設計と施工は連動すべきであるとの考えから、設計事務所が大工を抱えて工務店になりました。
工房を持つ設計事務所。
そんなコンセプトでやっていきたいと考えています。